衛星データによる蒸発散量推定:気候変動影響研究への応用と実践的解析手法
はじめに:気候変動研究における蒸発散量の重要性
蒸発散量(Evapotranspiration, ET)は、地表面から大気への水蒸気輸送量を示す重要な水文・気象変数です。蒸発散は、陸域の水循環、エネルギー収支、炭素循環において中心的な役割を果たしており、植生の生育、農業生産、水資源管理、気候モデルの精度向上など、多岐にわたる研究分野でその正確な把握が不可欠となっています。特に、気候変動下における干ばつの頻発や水資源の枯渇、生態系の変化などを評価する上で、蒸発散量の空間的・時間的変動を広域かつ継続的に監視する重要性が高まっています。
地上における蒸発散量の観測は、ライシメーターや渦相関法(Eddy Covariance)などの手法で行われますが、これらの観測は点または限られた範囲での情報に留まります。これに対し、衛星リモートセンシングは、広範囲にわたる地表面情報を継続的に取得できるため、蒸発散量の空間分布や時系列変化をモニタリングする強力な手段となります。本稿では、衛星データを用いた蒸発散量推定の基本的な考え方、利用される主要な衛星データ、実践的な解析手法、および気候変動影響研究への応用事例について解説します。
衛星データを用いた蒸発散量推定の基本的な考え方
衛星データから直接的に蒸発散量を測定することは困難ですが、蒸発散と密接に関連する様々な地表面および大気の状態量を衛星データから取得し、これらを物理モデルや経験的モデルに適用することで推定が行われます。主要な推定アプローチには以下のようなものがあります。
- エネルギー収支法: 地表面エネルギー収支の原理に基づき、観測された純放射量、地中熱フラックス、顕熱フラックスから潜熱フラックス(蒸発散量に相当)を推定します。衛星からは主に地表面温度(LST)、アルベド、植生指標などが得られ、これらを用いて各フラックスを計算します。代表的なアルゴリズムにSEBAL (Surface Energy Balance Algorithms for Land) や METRIC (Mapping Evapotranspiration at High Resolution with Internalized Calibration)、SSEBop (Simplified Surface Energy Balance Operational) などがあります。
- 水量収支法: 土壌水分や降水量、流出量などの水量収支を考慮して蒸発散量を間接的に推定します。衛星データは土壌水分や降水量の推定に貢献します。
- 経験的・半経験的手法: 植生指標(NDVI, EVIなど)や地表面温度、気象データ(衛星から推定または外部データを利用)などの経験的な関係式を用いて蒸発散量を推定します。Penman-Monteith式の衛星データバージョンや、植生指数と地表面温度の空間的な関係(TVDI: Temperature-Vegetation Dryness Indexなど)を利用する手法があります。
- モデルベース手法: 衛星データと物理ベースの陸域モデルを組み合わせるデータ同化の手法や、光合成有効放射量(PAR)や植生状態から蒸発散量を推定する光合成ベースのモデル(例: PT-JPL)などがあります。
これらの手法は、利用する衛星データやアルゴリズムの複雑さ、空間・時間解像度、精度などに違いがあります。研究目的や対象地域の特性に応じて適切な手法を選択することが重要です。
蒸発散量推定に利用される主要な衛星データ
蒸発散量推定には、様々な種類の衛星データが利用されます。主要なデータを以下に示します。
- 地表面温度 (LST): 熱赤外域のデータから推定され、地表面エネルギー収支計算に不可欠です。Landsat (TM, ETM+, OLI/TIRS)、Sentinel-3 (SLSTR)、MODIS (TERRA/AQUA)、VIIRS (Suomi-NPP/JPSS) などから取得できます。高解像度データは都市域や複雑な地形での詳細な解析に適しています。
- 植生指標 (NDVI, EVIなど): 可視・近赤外域の反射率データから計算され、植生の活性度や被覆率を示します。Landsat, Sentinel-2 (MSI)、MODIS, VIIRSなど広範なセンサーで取得可能です。植生の蒸散量を推定する上で重要な情報です。
- アルベド (Albedo): 地表面における太陽放射の反射率で、短波放射の吸収量を計算するために必要です。可視・近赤外域のデータから推定されます。MODISやVIIRSなどが全球的なアルベドプロダクトを提供しています。
- 土壌水分 (Soil Moisture): マイクロ波放射計や散乱計データから推定されます。SMAP (Soil Moisture Active Passive) や SMOS (Soil Moisture and Ocean Salinity) などのミッションが特化しています。水量収支アプローチやモデルベース手法において重要な入力情報です。
- 降水量: マイクロ波放射計などのデータから推定されます。GPM (Global Precipitation Measurement) ミッションなどが高精度な降水プロダクトを提供しています。水量収支やモデルへの入力として利用されます。
- その他の気象変数: 地表面付近の気温、湿度、風速、大気放射などは、外部の再解析データ(例:ERA5, NCEP/NCAR)を利用することが一般的ですが、一部は衛星データ(例:大気プロファイルデータ)や衛星プロダクト(例:水蒸気量)から取得・推定することも可能です。
これらのデータセットは、それぞれ異なる空間・時間解像度、取得頻度、空間カバレッジを持ちます。例えば、LandsatやSentinel-2は高解像度ですが取得頻度が比較的低く、MODISやVIIRSは低~中解像度ですがほぼ毎日全球を観測しています。研究のスケールや目的に応じて、適切なデータセットを選択したり、複数のデータセットを組み合わせたりする工夫が必要です。
実践的な蒸発散量解析手法
衛星データを用いた蒸発散量推定の実践的なワークフローは、一般的に以下のステップを含みます。
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データ収集と前処理:
- 目的の地域と期間に合致する衛星データの収集。
- 大気補正、幾何補正、雲・影の除去などの前処理。多くのデータプロダクトはこれらがある程度施されていますが、利用するアルゴリズムによっては追加の前処理が必要です。
- 異なるセンサーデータの空間・時間解像度を揃えるためのリサンプリングやモザイキング。
- 利用するアルゴリズムに必要な補助データ(例:標高データ DEM, 土地被覆分類図など)の準備。
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パラメータ計算: 蒸発散量推定アルゴリズムに必要な地表面パラメータ(LST, アルベド, 各種植生指標など)を衛星データから計算します。
```python
例:LandsatデータからNDVIを計算する場合 (概念コード)
import rasterio import numpy as np
Band 4 (Red) と Band 5 (NIR) を読み込み
with rasterio.open('path/to/landsat_band4.tif') as src4, \ rasterio.open('path/to/landsat_band5.tif') as src5: red = src4.read(1).astype(np.float32) nir = src5.read(1).astype(np.float32) profile = src4.profile
NDVIを計算
分母が0になるピクセルを考慮
denominator = (nir + red) ndvi = np.where(denominator == 0, 0, (nir - red) / denominator)
結果をGeoTIFFとして保存
profile.update(dtype=rasterio.float32, count=1) with rasterio.open('path/to/ndvi.tif', 'w', **profile) as dst: dst.write(ndvi, 1) ``` 多くの処理は、GDAL/OGR、Rasterio、Xarray、OpenCVなどのPythonライブラリや、QGIS/ArcGISのようなGISソフトウェア、またはGoogle Earth Engineなどのクラウドプラットフォーム上で効率的に実行できます。
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蒸発散量推定アルゴリズムの適用: 選択したアルゴリズムに従って、計算したパラメータと補助データ、気象データを用いて蒸発散量を推定します。既存のツールやライブラリ(例:PyMETRIC, OpenETプロジェクト)を利用するか、研究目的に合わせて独自に実装します。
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結果の検証: 推定された蒸発散量データを、地上観測データ(例:渦相関フラックスサイトのデータ)や信頼性の高い既存のプロダクトと比較し、精度評価を行います。不確実性の評価も重要なステップです。
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時系列・空間解析: 推定された蒸発散量プロダクトを用いて、対象地域の長期的な蒸発散量のトレンド、季節変動、異常値(例:干ばつ時の蒸発散量の低下)などを解析します。統計的手法や機械学習モデルを組み合わせて、変動要因の特定や将来予測に繋げることも可能です。
気候変動影響研究への応用事例
衛星データによる蒸発散量情報は、気候変動が陸域システムに与える様々な影響を評価するために広く利用されています。
- 干ばつ監視・評価: 干ばつ時には土壌水分が減少し、植生の蒸散活動が低下するため、蒸発散量は大きく減少します。衛星推定ETの時系列データを基準値と比較することで、干ばつの発生、期間、強度、空間的広がりをモニタリングできます。標準化蒸発散量指数(Standardized Evapotranspiration Index, SPEI)などの干ばつ指標の計算にも利用されます。
- 農業生産性・水利用効率の評価: 蒸発散量は作物の生育に直結するため、衛星ETは農業生産性の評価や水利用効率(WUE = 光合成量 / 蒸散量)の推定に用いられます。気候変動下での農業への影響評価や、灌漑管理の最適化に役立ちます。
- 森林火災リスク評価: 乾燥した植生は火災リスクを高めます。蒸発散量の低下は植生の乾燥を示唆するため、衛星ETデータを森林火災のリスク評価モデルの入力として利用できます。
- 陸域生態系変化の検出: 気候変動による気温上昇や降水パターンの変化は、植生の分布や機能に影響を与え、蒸発散量も変化させます。衛星ETの長期時系列分析を通じて、生態系の応答や変化を検出・評価できます。
- 水資源管理: 河川の流量や貯水池の水量に影響を与える蒸発散量を広域で把握することで、変化する水資源状況のモニタリングや将来予測に貢献します。
課題と今後の展望
衛星データを用いた蒸発散量推定には、いくつかの課題も存在します。例えば、衛星データの空間・時間解像度と現象のスケールミスマッチ、雲による観測の制約、アルゴリズム自体の不確実性、入力データ誤差の影響、複雑な地形や都市域での精度低下などが挙げられます。
これらの課題を克服するため、異なるセンサーデータの融合(例:高解像度光学データと高頻度マイクロ波データの組み合わせ)、機械学習や深層学習を用いたアルゴリズムの開発、データ同化手法の高度化、より精緻なモデルの開発などが進められています。また、OpenETのようなプロジェクトは、複数のアルゴリズムによる推定結果を統合・比較可能なプラットフォームを提供し、研究者や実務者にとって利用しやすい環境を整備しています。
まとめ
衛星リモートセンシングは、気候変動研究において極めて重要な変数である蒸発散量の空間的・時間的変動を把握するための不可欠な技術です。エネルギー収支法や経験的手法など、様々なアルゴリズムが存在し、 Landsat, Sentinel, MODIS, SMAP, GPMなどの多様な衛星データが利用されています。これらのデータと適切な解析手法を組み合わせることで、干ばつ、農業、生態系、水資源など、気候変動が陸域システムに与える様々な影響を定量的に評価することが可能となります。
今後、衛星センサーやアルゴリズムの進化、データ処理技術の発展、そしてデータ融合や機械学習などの先端技術の活用により、蒸発散量の推定精度はさらに向上し、気候変動研究やそれに基づく適応策・緩和策において、より信頼性の高い情報提供が期待されます。若手研究者の皆様には、これらのデータと手法を活用し、気候変動影響評価の最前線に貢献されることを期待いたします。