衛星海色データを用いた海洋生態系変動の追跡:クロロフィルa濃度と一次生産性の解析手法
はじめに
地球の気候システムにおいて、海洋は熱や二酸化炭素の貯蔵庫として、また生物地球化学的循環において重要な役割を果たしています。特に海洋の一次生産は、大気中の二酸化炭素を海洋へと固定する重要なプロセスであり、気候変動の緩和や海洋生態系の健全性維持に不可欠です。海洋の一次生産を担うのは主に植物プランクトンであり、その現存量はクロロフィルa濃度によって示されることが一般的です。植物プランクトンの分布や変動は、水温、栄養塩濃度、光環境、海流などの様々な海洋物理・化学的要因に影響され、気候変動によってこれらの環境が変化することで、海洋生態系も応答します。
広大な海洋における植物プランクトンの分布や変動を継続的かつ広域的に観測するために、衛星リモートセンシング、特に「海色データ」が極めて有効な手段となります。本稿では、衛星海色データを用いて海洋生態系、特に植物プランクトンの現存量(クロロフィルa濃度)や一次生産性の変動を追跡するための基本的な知識、主要なデータセット、そして実践的な解析アプローチについて解説します。
衛星海色データとその観測原理
衛星海色データは、海水中の物質(植物プランクトン、懸濁物、溶存有機物など)によって反射・吸収・散乱された太陽光を、衛星搭載センサーで観測することで得られます。特に植物プランクトンは、光合成色素であるクロロフィルaを多く含んでおり、これが特定の波長帯(特に青色光)を強く吸収するため、海水の分光特性に影響を与えます。衛星センサーは、複数の狭帯域波長チャンネルで海水の反射光を観測し、そのスペクトル特性から海水中の成分濃度を推定します。これが一般的に「海色プロダクト」と呼ばれるものです。
主要な海色プロダクトには、以下のようなものがあります。
- クロロフィルa濃度 (Chlorophyll-a concentration): 植物プランクトン現存量の指標として最も一般的に利用されます。通常、mg/m³ の単位で表現されます。
- 総懸濁物濃度 (Total Suspended Matter; TSM): 海水中に浮遊する有機物・無機物の総量です。
- 着色溶存有機物濃度 (Colored Dissolved Organic Matter; CDOM): 海水中に溶解している有機物で、特に紫外線や青色光を吸収します。
- 光合成有効放射量 (Photosynthetically Available Radiation; PAR): 植物プランクトンが光合成に利用できる太陽光の波長帯(400-700 nm)における放射エネルギー量です。これは海色プロダクト自体ではなく、異なるセンサーで観測されることもありますが、一次生産性推定に不可欠なデータです。
主要な衛星ミッションとデータセット
海洋研究に広く利用されている主要な衛星海色センサーを搭載したミッションには、以下のようなものがあります。
- MODIS (Moderate Resolution Imaging Spectroradiometer): NASAのAqua衛星およびTerra衛星に搭載されています。広域観測に適しており、長期間のデータが蓄積されています(Aquaは2002年〜、Terraは1999年〜)。日分解能が高く、海色研究における標準的なデータソースの一つです。
- VIIRS (Visible Infrared Imaging Radiometer Suite): NOAA/NASAのSuomi NPP衛星およびJPSSシリーズ衛星に搭載されています。MODISの後継センサーとして、多くの海色プロダクトを提供しています。
- OLCI (Ocean and Land Colour Instrument): ESAのSentinel-3衛星に搭載されています。MODISやVIIRSよりも多数の波長チャンネルを持っており、特に沿岸域や複雑な光学特性を持つ水域での精度向上が期待されています。Sentinelシリーズのため、コペルニクス計画を通じてオープンデータとして提供されています。
これらのデータは、主に以下のようなデータプロバイダから入手可能です。
- NASA Ocean Color Web (ocweb.gsfc.nasa.gov): MODIS, VIIRSなどの主要なNASA海色プロダクトを提供しています。様々なレベル(Level 1, Level 2, Level 3, Level 4)のプロダクトが入手できます。特にLevel 3(時空間的に集約されたプロダクト)やLevel 4(補間済みプロダクト)は、広域変動の解析に便利です。
- Copernicus Marine Service (marine.copernicus.eu): Sentinel-3 OLCIを含む、様々な海洋観測データを統合的に提供しています。Analysis Ready Data (ARD) に近い形式のプロダクトも提供されており、解析の効率化に役立ちます。
データ形式はNetCDFやHDF4/5が一般的です。これらのファイル形式を扱うためには、PythonのnetCDF4
やh5py
、あるいはより高レベルな配列操作ライブラリであるxarray
などが便利です。クラウドネイティブな形式であるZarrやCOG(Cloud Optimized GeoTIFF)で提供されるデータセットも増えており、クラウド環境での大規模解析に適しています。
クロロフィルa濃度データの解析実践
衛星海色データ、特にクロロフィルa濃度データの解析は、以下のようなステップで行われることが一般的です。
-
データの取得と前処理:
- 対象期間・海域のL3プロダクト(例: 日別、週別、月別のグリッドデータ)をデータプロバイダからダウンロードします。
- 海色プロダクトは、大気や雲の影響を補正して算出されますが、完全に除去できないノイズや雲による欠損が含まれることがあります。
- 解析対象海域を切り出し、陸域や海氷などで有効な値がないピクセルをマスキングします。
- 必要に応じて、欠損値の補間(例: 線形補間、経験的直交関数 (EOF) を用いた補間など)を行います。ただし、補間手法の選択とその不確実性への考慮は重要です。
-
時系列解析:
- 特定の地点や領域平均におけるクロロフィルa濃度の時間変化を分析します。
- 季節変動、年々変動、そして長期トレンドの抽出を行います。移動平均や季節成分除去などの統計的手法が用いられます。
- 例えば、
xarray
ライブラリは時空間データの操作に非常に強力で、時間・空間平均やリサンプリングを容易に行うことができます。 -
Pythonによる時系列プロット例: ```python import xarray as xr import matplotlib.pyplot as plt
データセットを読み込み(例: NetCDFファイル)
ds = xr.open_dataset("path/to/chlor_a_data.nc")
特定領域の平均時系列を計算
緯度・経度範囲を指定して領域平均
region_mean = ds['chlor_a'].sel(latitude=slice(lat_min, lat_max), longitude=slice(lon_min, lon_max)).mean(dim=['latitude', 'longitude'])
時系列プロット
plt.figure(figsize=(12, 6)) region_mean.plot() plt.title('Area-averaged Chlorophyll-a Time Series') plt.ylabel('Chlorophyll-a (mg/m³)') plt.xlabel('Time') plt.grid(True) plt.show() ```
-
空間解析:
- 特定の時点におけるクロロフィルa濃度の空間分布パターンを可視化・分析します。
- GISソフトウェア(QGIS, ArcGISなど)やPythonの地理空間ライブラリ(
cartopy
,geopandas
,rasterio
など)を使用して地図上にプロットします。 - 例えば、海洋フロントや渦などの物理構造とクロロフィルa濃度の関係を調べることができます。
- 空間相関やクラスター分析などの手法も応用可能です。
一次生産性の推定
衛星海色データから直接一次生産性を観測することはできませんが、クロロフィルa濃度、PAR、SSTなどの衛星観測データやその他のデータセットを用いて、生物地球化学モデルに基づき一次生産性を推定することが可能です。
代表的な衛星ベースの一次生産性モデルには、以下のようなものがあります。
- VGPM (Vertical Generalized Production Model): Behrenfeld and Falkowski (1997) によって提案されたモデルで、日積算の表面クロロフィルa濃度、真昼のPAR、日長、そしてPAR利用効率(通常はSSTの関数として与えられる)を入力として、日積算の光合成量を推定します。
- Eppley-VGPM: VGPMのPAR利用効率をEpelley (1972) のモデルに基づいて計算するバリアントです。
これらのモデルを実行するためには、以下のデータセットが必要になります。
- クロロフィルa濃度: 衛星海色プロダクトから取得します。
- 光合成有効放射量 (PAR): 衛星観測(例: MODIS PARプロダクト)や、気候モデル、再解析データから取得します。
- 海面水温 (SST): 衛星観測(例: AVHRR, MODIS, VIIRS, Sentinel-3 SLSTR)や、再解析データから取得します。
- 日長: 地理的位置と日付から計算します。
一次生産性モデルから得られる値は、あくまでモデルによる「推定値」であることに注意が必要です。モデルにはそれぞれ仮定があり、特に海洋の鉛直構造(例えば、深部クロロフィル極大層)を考慮していない点や、種組成の違いによる光学特性・生理特性の違いを反映できていない点などが限界として挙げられます。
他の衛星データとの連携解析
海洋生態系の変動は、物理的な海洋環境と密接に関連しています。したがって、海色データ単独ではなく、他の衛星データと組み合わせて解析することで、より深く現象を理解することができます。
- 海面水温 (SST): SSTは植物プランクトンの増殖速度や種組成に直接影響します。SSTとクロロフィルa濃度の空間的・時間的な関係を解析することで、物理環境と生物応答の関係性を探ることができます。海洋熱波がブルーム発生に与える影響などは典型的な連携解析テーマです。
- 海面高度 (Sea Surface Height; SSH): 海面高度データからは、海洋の循環や渦、フロントなどの物理構造を捉えることができます。これらの物理構造は、栄養塩や植物プランクトンの輸送・集積に影響を与えるため、SSHとクロフィリルa濃度の関係を調べることは、物理プロセスが生物分布をどのように制御しているかを理解する上で重要です。アルティメトリー衛星(Jasonシリーズ、Sentinel-6など)のデータが利用可能です。
- 風速 (Wind Speed): 海面での風は、混合層深度に影響を与え、深層からの栄養塩供給や、植物プランクトンの光環境に影響を与えます。散乱計衛星(例: MetOp/ASCAT)データを用いて風速情報を取得し、海色データと組み合わせることで、物理的な混合プロセスと一次生産性の関係を調べることができます。
気候変動研究への応用例
衛星海色データを用いた気候変動研究は多岐にわたりますが、いくつかの例を挙げます。
- 長期的なクロロフィルa濃度トレンドの検出: 地球規模または特定の海域におけるクロロフィルa濃度の長期的な増減傾向を分析し、気候変動との関連性を評価します。海洋温暖化や海洋酸性化による影響の検出などが含まれます。
- 一次生産性の気候変動応答: 衛星データから推定される一次生産性の変動を分析し、水温上昇や海流パターンの変化などが一次生産性に与える影響を定量化します。
- 海洋混合層深度の変化と植物プランクトン: 衛星データからSSTや海面高度データを用いて推定される混合層深度の変動と、海色データで捉えられる植物プランクトンブルームの発生時期や強度の関係性を調べ、気候変動による物理・生物プロセスの変化を評価します。
- 海洋熱波が海洋生態系に与える影響: 海面水温の極端なイベントである海洋熱波の発生頻度や強度と、それに関連する植物プランクトンブルームやそれに続く生態系への影響(例:貧栄養化)を、衛星データを組み合わせて解析します。
課題と展望
衛星海色データを用いた研究には、いくつかの課題も存在します。
- 雲の影響: 光学センサーである海色センサーは、雲に覆われた領域を観測できません。これは時空間的なデータ欠損を引き起こし、長期的なトレンド分析や空間的な連続性の把握を困難にします。様々な補間手法が提案されていますが、その不確実性を評価しながら利用する必要があります。
- 沿岸域・内水域の課題: 沿岸域や湖沼などの内水域は、外洋に比べて光学特性が複雑(懸濁物やCDOM濃度が高い、海底反射の影響など)であり、外洋向けに開発された標準的な海色プロダクトアルゴリズムでは精度が低下することがあります。これらの水域に特化したアルゴリズムの開発や、高空間分解能衛星(例: Sentinel-2/MSI, Landsatシリーズ)の活用が進められています。
- モデルの不確実性: 一次生産性推定モデルは、観測できない鉛直構造を考慮していなかったり、普遍的なパラメータを使用していたりするため、特定の海域や状況下での精度に限界があります。現場観測データとの比較検証(データ検証)や、より高度なモデル(例: 生物地球化学モデルにデータ同化する手法)の利用が重要です。
- 高時間・高空間分解能データのニーズ: より詳細な物理・生物プロセスを捉えるためには、高頻度かつ高空間分解能の海色データが求められています。衛星コンステレーションの活用や、異なる衛星データの融合による解像度向上などが今後の課題となります。
今後は、機械学習技術を用いた海色プロダクトのアルゴリズム開発、クラウドプラットフォーム上での大規模データ解析環境の普及、そして異種データ(衛星、現場観測、モデル)の統合解析によって、気候変動下の海洋生態系変動に関する理解がさらに深まることが期待されます。
まとめ
衛星海色データは、地球規模での海洋生態系、特に植物プランクトンの現存量や一次生産性の変動を追跡するための強力なツールです。MODIS, VIIRS, OLCIなどの主要な衛星ミッションから提供されるクロロフィルa濃度やPARなどのプロダクトは、適切に前処理・解析することで、海洋の季節変動、年々変動、そして気候変動に関連する長期的なトレンドを明らかにすることができます。さらに、SSTや海面高度などの他の衛星データと連携させることで、海洋物理プロセスと生物応答の関係性を深く掘り下げることが可能です。
衛星海色データ解析には、雲による欠損や沿岸域での精度といった課題もありますが、これらの課題克服に向けた技術開発や、モデルとの統合、機械学習の応用など、研究は常に進展しています。本稿が、若手研究者の皆様が衛星海色データを自身の研究に活用し、気候変動下の海洋生態系変動メカニズムの解明に貢献するための糸口となれば幸いです。